OSAKAぶらこうじ見聞記 ◆平野郷

ぶらこうじカルテ No.R-018-1 名称:平野郷の地獄堂   

場所:大阪市平野区平野本町 ぶらこうじ指数:86 

=戦国時代から環濠自治都市として栄えた町の博物館群=

印象:平野は環濠自治都市として大阪の歴史上最も早く開けた拠点だが、現在は「町ぐるみ博物館」というイメージで、多数の寺社などがあり文化財の宝庫と呼ぶにふさわしい。その中でも印象に残るもののひとつが全興寺の地獄堂である。この寺の創建から町が拡がっていったと伝えられるが、その全興寺へは約50軒の店舗の並ぶサンアレイ平野本町商店街(写真)のアーケードから直接境内に入ることができる。 

1300年前に聖徳太子が薬師堂を建てられたと伝えられ、薬師如来がご本尊として祀られている本堂(写真)の左脇には、昭和20年代からの駄菓子やおもちゃを集めた「駄菓子屋さん博物館」がある。またその隣には閻魔様のいる地獄堂(写真)があって、ここだけは何やら恐ろしい雰囲気がある。

恐る恐る地獄堂に入って銅鑼を叩くと閻魔大王が地獄のあり様を語りだす仕組みになっている。

 

 

 

 

嘘をつくと舌を抜くという赤鬼(写真)の脅しを避けて外へ出ると、その奥には地下空間が待っている。

地下空間は「ほとけのくに」(写真)と呼ばれて、151体の石仏に囲まれた瞑想空間になっている。このように境内はすっかりミュージアム化したお寺になっている。

また、この寺の本堂には徳川家康の身代わりになった首だけの地蔵尊がある。大坂夏の陣で真田幸村が家康を狙って仕掛けた爆薬を、家康は厠へ行っていたため運よく避けて、代わりに傍の地蔵尊の首がすっ飛んだと伝えられている。(清水h.2019.12 (令和元年))

ぶらこうじカルテ No.R-018-2 名称:環濠都市平野郷

場所:大阪市平野区平野宮町

=戦国時代から環濠自治都市として栄えた平野郷=

印象:今回のぶらこうじ踏査は、平野郷である。聖徳太子が起源の全興寺、坂上田村麻呂(一族)に縁のある杭全(くまた)神社や長寶寺、融通念佛宗の総本山である大念佛寺など、由緒ある寺社が多く現存する。大阪市発行の「おおさかあそ歩」、平野の町づくりを考える会発行の「平野町ぐるみ博物館」のリーフレットを片手に散策したが、街並みからは、町の人々の誇りと愛着が伺われる。大阪の真ん中にこんなに歴史が楽しめるエリアがあるとは正直驚いた。

平野は、中世には環濠自治都市として繁栄した。濠は、戦国時代、矢銭を要求した織田軍から郷を守るために平野川を利用して設けられたそうであるが、今は、杭全神社の東側にわずかに濠が残っているだけである。宣教師フロイスは書簡で、「堺の向こう1レグア半の所に甚だよい町がある。悉く竹をもって囲まれ、城のごとくなっていて、平野と称する。甚だ富んだ人達の村である。」と記している。(1レグアは、ポルトガルの単位で約5キロ)

昔の絵図を見ると、周囲を濠に囲まれ、四方に向け街道が走りだす平野郷の姿がわかる。北は大坂道・玉造天満道、東は大和河内信貴道、南は高野道、西は住吉堺道と描かれている。また、上流の柏原村で盛んに生産された原綿を船(柏原船と呼んだそうだ)で、平野郷に運び十数軒の木綿繰屋で加工するなど平野郷は水陸の要衝地であったようだ。(室井2019.12(令和元年)) 

(写真)杭全神社の脇に残る濠が往時の名残を留める。フロイスが書簡を書いたあと、秀吉の命により、平野郷の商人は築城した大坂城周辺に移住させられることになる。