(随筆) 「パリ万博と日本人」

●「大阪万博」開催まで、約2年となった。日本が初めて万博に出展したのは1867年の「パリ万博」であるが、そこでの興味深い話を紹介する。

 

折しも幕末の動乱期、幕府は、徳川慶喜の弟・昭武を将軍名代としてパリに派遣し、膨大な展示品を出典するなど大変な力の入れようであった。幕府としては、薩摩藩との主導権争いを制し、何としても「借款計画」を実現し、幕府再建を図った訳である。

時を同じくして「帝国日本芸人一座」の一行がパリに到着している。世界一周興行中の日本の曲芸団の20名である。彼らは、前年の秋、横浜を出港し、アメリカ興行を終えて欧州に着いた。パリではナポレオン円形劇場において、青竹登り、手品、からくり、こま回しなどの日本の芸を披露したが、これが大好評で連日満員だったという。万博に負けず劣らずの大うけである。

 

地元「フィガロ紙」が、曲芸団と徳川昭武とのエピソードを紹介している。『将軍名代として派遣されていた徳川昭武が、曲芸団に花代として大金50両を授けた。』というものである。当時の昭武は財政ピンチだったはずだが、曲芸団の人気にあやかり、幕府の威信を示す宣伝効果を狙ったのではないかと思われる。しかし、そのような努力も空しく、万博参加主体が、幕府と薩摩藩が同格となったことが幕府側の致命的な敗着となり、「借款計画」は頓挫してしまう。これが、翌年の大政奉還につながったと言われている。

 

●ところで、その前年の1866年、幕府は、商人や留学生に海外渡航を認める「海外渡航差許布告」を発令している。そのパスポート民間第1号は、何と、この曲芸団である。鎖国中止の象徴であるパスポート第1号の曲芸団に、1万キロも離れたパリで、徳川昭武が幕府の延命を期して、空しく大金を贈るとは、偶然とはいえ何とも興味を引く話ではないか。

 

●幕府の話はさておき、パリ万博は、「ジャポニズム」を誕生させるという大きな成果を生んだ。浮世絵、漆器、陶器、刀剣等の展示品は、ヨーロッパ人に強い印象を与え、モネやゴッホの画風もここから生まれたと言われている。パリ万博は東洋の島国だった日本を世界中に知らしめるという大きな影響を残した訳である。

 

●曲芸団の話にしろ、ジャポニズムにしろ、こう見てくると、万博は不思議なパワーを持っている。現在、パンデミック、ウクライナ、核の危機、地球温暖化など世界は大きな転換点にある。2年後、夢洲で開催される「大阪万博」は世界に どんなインパクトをあたえるのだろうか。楽しみでもあるし、大いに期待もしたい。                (2023.3 A.M)

  

※ 参考図書:「海を渡った幕末の曲芸団(中公新書)」、著者の宮永孝氏は、現地調査も丹念に行い、曲芸団に関する面白い実話を多く記している。